アンデス北上

ペルーに再入国して最初に訪れた街はアレキパである。アレキパの街からはカニョン・デル・コルカと言う渓谷に続く道が延びているのだ。カニョン・デル・コルカの事はクスコで再会した森川(仮名)君から教えてもらっていた。アメリカ合衆国にある有名なグランドキャニオンと比べてみると広さや大きさでは勝負にならないほど小さいのだけど、渓谷の深さだったらグランドキャニオンの倍ぐらいはあるらしいのだ。

そんなカニョン・デル・コルカと言う渓谷に行ってみる事にした。個人でバスなどを乗り継いでカニョン・デル・コルカに行くのは大変らしいので、1泊2日のツアーに参加して行くことにした。アレキパに到着したその日に旅行会社を何軒か巡って、次の日の朝に出発するカニョン・デル・コルカのツアーに参加することが出来た。

朝、ホテルにツアーガイドが迎えに来てくれた。約束していた時間よりも1時間ほど遅れて迎えに来たのだが、それは予想できた事である。今回のツアーはオランダ人カップルとオーストラリア人夫婦とスペイン人夫婦と俺の7人だった。1人参加は俺だけで2組の夫婦は熟年夫婦であった。落ち着いたツアーになりそうである。

車に乗ってアレキパ市内を抜けるとアンデスの大自然のが広がっていた。抜けるような青空がどこまでも広がっていて、いたるところでリャマやアレキパと言うヤギ系の動物達が草を食べている。ガイドさんがいたのでそう言う動物の名前も教えてもらえたのだ。たまにはツアーの旅も良いものである。

今日はチバイと言うアンデスの山の中にある村に泊る。チバイに行く途中の高原で休憩をとったのであるが、そこは標高が4800メートルもあるのだという。驚いてしまった。富士山よりも1000メートルも高い場所である。たしかに空気は薄い気がするが、頭が痛くなったり高山病の症状は無い。そう言えば中国とパキスタンを結ぶ、標高4700メートルのクンジュラーブ峠で走っても俺は高山病にならなかった。俺は高山病になりにくい体質なのであろう。

2時ごろにチバイの村に到着した。みんな腹が減っていたのですぐに昼飯を食べる。食事の後にチバイのホテルに入って少し休憩する。カニョン・デル・コルカの渓谷には明日行くそうである。夕方からはチバイの近くにある温泉に行く。久しぶりの温泉でとても気持ちが良かった。夜になると気温がかなり下がってきたが、温泉の効能で体がポカポカしていた。

夕食はアンデスの民族音楽や踊りを見ながら食べる。我々の他にもお客さんは数十人が来ていた。ここのお客さんは全て観光客である。踊りや音楽はとても素晴らしく、定番の「コンドルは飛んで行く」も生演奏で聞かせてくれた。お酒も入ってかなり盛り上がった。途中からお客さんもステージに引っ張りあげてみんなで一緒に踊り始めてとても面白かった。

朝、今日の出発はとても早いので日の出と共に起きる。しかし、外も部屋の中もとても寒い。後でガイドさんが話してくれたが、この村では去年の冬にたくさんの人が凍死してしまったらしいのだ。かわいそうな話である。

朝食を簡単に済ませて、いよいよカニョン・デル・コルカに向かう。車は川沿いの道を走って行く。そのうちに、川がどんどん下がっていき、気が付くと谷底を流れていた。そして、そこには大きな渓谷が出来あがっていた。車はしばらく走ってカニョン・デル・コルカの展望台に到着した。展望台には観光バスが何台か着ていた。我々もそこで降りてカニョン・デル・コルカの眺めを堪能する。

ガイドさんの話によると、渓谷の深さは世界一なのだそうだ。それを聞くととても驚いてしまった。どれぐらいの深さがあるのかを聞いてみると3400メートルだと教えてくれた。信じられなかったのでガイドさんに聞き返した。やっぱりそれでも3400メートルなのだという。この崖の底までの距離が3400メートルもあるのだという。富士山がすっぽり入らないぐらいの高さである。俺には信じられる訳が無い。驚いている俺の顔を見てガイドさんがもう一度説明してくれた。ここの標高ではなくて、この渓谷の深さが3400メートルで間違いは無いそうだ。俺は驚愕しながらもガイドさんの話しを信じた。

改めて、3400メートルの渓谷を眺める。谷底には川が流れているがとても小さく見えた。それだけの深さがある渓谷なのであろう。渓谷の下のほうを鳥が飛んでいる。その鳥達は上昇気流を使ってどんどん上にあがってきた。ガイドさんがあれはコンドルだと教えてくれた。コンドルは我々のすぐ近くをかすめ飛ぶ。遠くを飛んでいる姿はとても小さいのだが、近くで見るととても大きかった。両翼を広げると3メートルぐらいはあった。とても凄い迫力だった。感激である。

1時間ぐらいカニョン・デル・コルカの渓谷とコンドルが空を飛ぶ光景を眺めた。コンドルがいるなんて俺は知らなかったのだがアレキパのツアー会社でツアーを申し込む時にコンドルが見れることもちゃんと説明されていたらしい。

我々は7人ともカニョン・デル・コルカを充分に満喫して戻ってきた。途中で何ヶ所か観光名所を周りながらチバイの村に戻る。チバイの村に到着してから昼飯を食べた。この昼飯の時にスペイン人夫婦がペルー北部の観光情報を教えてくれた。昼飯の後はひたすらアレキパを目指して帰る。標高4800メートルの高原で一度休憩してからアレキパに戻った。アレキパに着いたのは夕方だった。俺はその日の夜行バスでナスカに向かう。有名なナスカの地上絵を見に行くのだ。

ナスカに到着したのは夜が明けないまだ暗い時間だった。チョット怖かったので朝までバス会社の小屋にいることにしたのだが客引のにーちゃんがしつこいぐらいにナスカの地上絵のセスナツアーの勧誘をするのだ。俺は根負けして彼のツアーに参加することにした。当然、ツアーの金額は最初に提示された金額の5分の1ぐらいにはさせてある。

交渉が成立したので客引のにーちゃんのホテルに連れて行かれた。ホテルのレセプションでしばらく休憩して、いよいよセスナツアーに出発。今回のツアーは貸し切りタクシーで行くらしい。最初にナスカで出土された土器などを展示してあるしょぼい博物館や砂金取りの工場を見に連れていかれた。

俺が日本人だと分るとタクシーの親爺は「この車はニッサンだ。」と言い出した。しかし、どう見ても60年代か70年代のバリバリのアメ車である。俺は「ニッサンではなくアメリカ製でしょ」と親爺に言う。それでも親爺は「ニッサンだ」と言い放った。そして、親爺は車のボンネットを開けて俺に見せた。すると、驚いたことにエンジンはニッサンのエンジンであった。ビックリである。普通考えられない事である。アメ車に無理やりニッサンのエンジンを乗せているのだ。しかもちゃんと走っているのだから不思議なものである。

次はいよいよセスナに乗って地上絵を見に行くのであるが、上空にモヤがかかっていると言うので、先にナスカ人のお墓を見にいくことになった。お墓は砂漠のど真ん中にあった。深さ3メートルぐらいの穴が掘ってあってその中にミイラがあるのだ。詳しくは判っていないらしいのだが、プレインカ時代の遺跡ということで、かなり古い時代のものらしい。いろいろと説明してくれたのだが俺には良く判らなかった。

ナスカ人のお墓を見終わってから、もう一度飛行場に行ってみる。上空にはまだモヤがかかっているみたいなので、もうちょっと待ってからでないとセスナは飛ばせないと云うことだった。モヤが晴れるまで我々はここで待たされる事になった。30分ほど待っているとモヤがだいぶん晴れてきたみたいでセスナを飛ばせる様になった。

我々の他にも待っている人達がたくさんいたので、セスナが飛ぶのも順番待ちである。強いセスナ会社から順番に飛び立てるようだ。我々のセスナは10番目ぐらいである。我々の順番が近づいてきていよいよセスナに乗りこむ。そう言えば俺はセスナに乗るのは初めてである。ドキドキする。

セスナは風にあおられて、ふらつきがながらも離陸した。セスナはすぐに安定飛行に移って、パイロットが地上絵の説明をしてくれた。更に機体を傾けて地上絵を見やすくしてくれた。クジラやサルやコンドルやクモ等など、たくさんの地上絵を見ることができた。地上絵の線はかなり薄くて見え難いものもあったが、だいたいは見ることができた。

セスナは地上絵を見るために曲芸飛行のような感じて飛んでいたので、俺はセスナが飛び立ってから15分ぐらいで飛行機に酔ってしまった。それからが大変である。気持ちが悪いのでゲロ袋を口に当てながらも我慢する。そのうちに変な汗が出てきた。限界ギリギリである。そんな状態でも地上絵を見なくてはならないと思い、気合いで地上絵を見る。それにしても俺にとっては地獄の時間であった。

地上絵を見終わってセスナが着陸した時にはホッとした。セスナを降りてからも30分ぐらいは辛くて歩けない状態だった。今回のセスナ酔いが今までの旅の中で1番辛かった事かもしれない。

午前中に地上絵の観光が終わってしまったので、午後からはナスカの市場をウロウロと散策した。夕食は市場の屋台で食べた。久々の屋台の食事は美味しかった。今日はセスナに乗って疲れてしまったのでナスカに宿泊することにした。

<<前のページ | シルクロードの旅に戻る | 次のページ>>