ジンバブエ

やっとジンバブエに入国する事が出来た。急いで旅をしてきたおかげで、リオのカーニバルにはなんとか間に合いそうだ。国境の町、ビクトリアフォールズからは列車で出発する。一度グレートジンバブエに寄ってから首都のハラレを目指すのだ。夜行列車で移動して、次の日のお昼前にブラワーヨという町に到着。ここでバスに乗り換えてマスビンゴと言う町に向かう。更にここからもう一度バスを乗り換えてグレートジンバブエに向かうのである。しかし、このバスもグレートジンバブエの近くを通ると云うだけなので、途中で降ろされてしまった。残りの2キロほどを歩いてやっとグレートジンバブエに到着した。外は暗くなっていた。ここの宿はグレートジンバブエの遺跡公園の中にある宿名のである。明かりがほとんど無かったので星が綺麗だった。

昨日、到着した時には辺りはもう暗くなっていたので判らなかったが、朝になってから初めてグレートジンバブエの全貌を見ることが出来た。グレートジンバブエはどこにでもあるような大きな丘の遺跡だった。全然感動しない。言葉を失うほどの素晴らしさも無い。はっきり言ってエジプトで教えてくれた竜岡(仮名)さんにだまされた様だ。がっかりしてしまった。それでも苦労してここまで着たんだから、丘に登ってみることにした。丘には迷路の様に道が張り巡らされていて一種の要塞のようになっている。道の1つを登って遺跡の中に入っていった。

中に入っていくと、感激した。凄い。竜岡さんが言っていた事は本当だった。外から見るとたいした事は無いけど、丘を登り始めて遺跡の中に入るとグレートジンバブエの素晴らしさが判る。とても素晴らしい遺跡だ。しかし、この素晴らしさをどうやって表現して良いか判らない。竜岡さんが「とにかく行ってみたら判る」と言っていた理由が良く判る。言葉を無くしてしまう素晴らしさだ。遺跡も素敵だしそこから見渡せる景色も素敵なのだ。言葉を失うほど素晴らしい遺跡だ。

お昼ご飯にサンドイッチを持参していたので、アミン(仮名)ちゃんと一緒に遺跡の丘の上で景色を見ながら食べた。最高だった。丘の遺跡の他にも小さな博物館や城壁に囲まれた砦などもありグレートジンバブエを満喫できた。

お日様が傾いてきた頃、現地の人達が伝統的な踊りと音楽を奏でている場所を見つけたので行ってみた。お客さんは我々だけなのに伝統的な踊りを踊ったり音楽を奏でてくれたりした。その近くではニワトリやヤギが放し飼いにされてる。糸を紡いでいる人も居てほのぼのとしていた。我々が最後のお客だったみたいで、我々が帰り出すと楽器を片付けはじめたり、ニワトリやヤギを小屋の中に居れはじめたりした。今日はもうすぐ終わりなのだろう。

グレートジンバブエを思いっきり満喫して1日中歩きまわったのでへとへとになってしまった。トロトロと遺跡公園の宿まで歩いて帰る。遺跡の職員も仕事が終わったみたいで、我々と同じ方向に歩いて帰る。よく見ると、その中に洋服に着替えている伝統的な踊りを踊ってくれていた人達も混ざっていた。さっきの踊りや音楽を披露してくれた人達も普通に生活しいる事がわかって、なんだかほのぼのとしてしまった。

グレートジンバブエまで来るのも大変だったけど、帰るのも大変である。2回ほどヒッチハイクをしてマスビンゴに向かう。ヒッチハイクをした車の荷台から見た景色はとても綺麗だった。運良く、お昼前にはマスビンゴに到着できたので、そのままバスでハラレに向かう。

2000年2月13日の夕方にジンバブエの首都のハラレに到着できた。ケニアのナイロビに到着してから1ヶ月が過ぎていた。ハラレに到着してすぐに竜岡(仮名)さんに教えてもらったホテルにチェックインすると、そこには浩史(仮名)くんが到着していた。感激の再会である。

いよいよここからリオのカーニバルに向けて飛行機で飛び立つのだ。ここまで約1ヶ月のアフリカの旅になったのが、その間に現地の人達と話す機会もたくさんあった。我々が日本人であると教えると、「トウキョウ」「オオサカ」等の彼らが知ってる日本の都市の名前が出てきて来て話が盛り上がる。しかし、「オオサカ」の次に彼らの口から出て来る都市は「ヒロシマ」「ナガサキ」なのである。

これにはビックリした。「ヒロシマ」「ナガサキ」を知っている人が一人だけなら驚かないが、ほとんどの人が知っているのだ。ビクトリアフォールズの人も知ってるし、ダルエスサラームで会った人も知っていたのだ。原爆投下の教育がなされていて、その教育が広くいきわたっているという事なのだろうか?カルチャーショックを受けた。

更に驚いたことに彼らの口から「ヒロヒト」の名前まで出てきたのだ。そんな名前、日本人の俺だって忘れてしまっていた。彼らの言う「ヒロヒト」は昭和天皇の事である。そして、俺に「今の天皇の名前はなんだ?」と、聞いてくるのだ。今の天皇の名前なんて知らん。「ナルヒト」っていうのは思い出したけど、天皇でなくて皇太子のはずだ。結局、昭和天皇の後継者「アキヒト」の名前を思い出すことは出来なかった。

ハラレに到着してから、やらなくてはならない事がたくさんあった。まず、飛行機のチケットを予約しに行く。チケットは思っていたより高かったけど、ここまで来ているのだ。多少の出費は仕方がないだろう。ついでに銀行でお金をおろしておく。

インターネットカフェでEメールをチェックする。俺をリオのカーニバルの虜にさせたサユリ(仮名)ちゃんからEメールが届いていた。今年のリオのカーニバルは3月4日~7日まで開催されるらしい。待ち合わせのホテルも教えてくれた。そして、サユリちゃんはカーニバルの直前にリオ入りする予定らしい。

突然ではあるがここにきて重大な問題が持ちあがった。なんと、ブラジルに入国するにはビザが必要らしいのだ。しかも、ブラジルビザを入手するのは難しい様である。早速、詳しいブラジルビザの情報を集めようとした。しかし、ここはアフリカのジンバブエである。ケニアビザや南アフリカビザの情報は簡単に手に要れることが出来ても、俺が欲しいのは南米のブラジルビザなのだ。ジンバブエの首都ハラレからブラジルに行こうとする人なんて聞いたことが無い。当然、ハラレ市内でブラジルビザを入手する為の情報なんてある訳がない。困ってしまった。

今、判っているブラジルビザを手に入れる方法としては、最初にビザの要らないアルゼンチンまで飛行機で行って、アルゼンチンでブラジルビザを取るという方法である。しかしそれではリオのカーニバルには間に合わないかもしれない。大ピンチである。

とりあえず、ハラレのブラジル大使館を探してみることにした。しかし、ハラレにブラジル大使館が在るのかどうかも判らないのだ。ここまでやって来てリオのカーニバルに赤信号が灯ってしまった。パキスタンビザ、イランビザに続いて、またしてもビザの問題で大ピンチに陥ってしまった。

ダメ元で、ハラレのツーリストインフォメーションでブラジル大使館の事を聞いてみた。すると、近くにブラジル大使館が在ると教えてくれた。その足でブラジル大使館に行ってみる。しかし、今日の営業は終わっていたので明日もう一度行くことにした。なんと、ブラジル大使館がジンバブエに在ったのだ。これでブラジルビザの問題に一筋の希望が見えてきた。

次の日、ブラジル大使館で手続きをする。ビザは4日後に貰えることになった。チケットの予約もちゃんと出来て、リオのカーニバルまでの道程を確保することが出来た。問題解決である。

ハラレの宿には浩史(仮名)君などを含めて10人弱の日本人がいた。その中にシンタ(仮名)さんと雅美(仮名)さんの夫婦が泊まっていた。彼らとはエジプトのサファリホテルで2回ほど会った事があるのだ。シンタ&雅美夫婦はサファリホテルに泊っていなかったが、情報を集める為に何度がサファリホテルに来ていたのだ。なので我々はサファリホテルで2回ほど会っていた。シンタさんも雅美さんもサファリホテルで出会った俺のことを覚えていてくれたのだ。俺は最初はすっかり忘れていたけれど、2人と話をしているうちに思い出した。こんなところで再会するとは思いもしなかった。アフリカ大陸も広いようで狭いみたいだ。

そのうちにザンジバルで別れたユキエ(仮名)ちゃんもハラレにやって来て再会。「と」(仮名)やフロカツ(仮名)さんももう少しでここに来るらしいのだ。旅の仲間がどんどんここに集まってきて、ハラレの滞在が面白くなってくる。

ビザやチケットの関係でリオのカーニバルに向けて飛び立つまでに2週間ほどハラレに滞在した。その間に、新しく出会った人達や再会した人達と楽しく過ごすことが出来た。俺がブラジルに向けて出発する日はささやかながらお別れの宴を開いてくれた。

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