生命の価値

看護師の仕事をしていると「人生」の最後の場面に立ち会う機会がある。人間の死の場面ではその人の「生命」を重んじるのか、その人の「人生」を重んじるのかを迫られる事がある。機械に繋がれて、「生命」だけは保っているが人間としての尊厳やその人の「人生」を軽んじてまで「生命」を保つ必要なあるのかと疑問に思う事もある。

日常生活の場面では「人生」を重んじる事は「生命」を重んじる事と同じ事になる。「人生」を尊重ためには「生命」が在ると言うことが大前提となるので、どちらか一方だけを選ばなければならないと言う様な葛藤は生まれない。だが、人生の終末期にはその人の「人生」を尊重するためにはその人の「生命」を犠牲にする必要のある場面が出てくる。

機械に繋がれて「人生」の尊厳など全く感じない状態で「生命」を数週間保つた事が出来たとしても、それが本人の希望かと言うとそうではないと感じるのだ。人生の最後の幕引きだって自分の「人生」の一部なのだから、自分で決めたい。

人生の最後の場面にはその人がどのように生きてきたのかを垣間見ることが出来る。沢山の親族や友人に囲まれて惜しまれながら最後を迎える人は、周りの人からその様に慕われるだけの人生を送ってきたのだろうと思う。逆に親族もほとんど来てくれないような人はその様な人間関係を築いて人生を歩んできた人なんだろうなと想像できる。

人生の最後にはその人のが歩んできた人生が集約して反映されるのだと思う。周りの人間の犠牲にして自分の人生を生きて来た人は最後にそのツケが回ってくるだろうし、周りの人の分の苦労も背負ってきたような人は最後にみんなから慕われながら、人生の幕引きが出来るのかなと感じてしまう。人生はプラス面もマイナス面も最後には清算されて、プラスマイナスがゼロになっているのかなと思う。

どのような人生を送るのかを決めるのと同じように死に方だって自分で決めたい。どんな人間だって絶対に死ぬのだから。死は悲しいかもしれないが人生のイベントの一つで特別なものではない。だから、死に方もある程度は自分で決める事が出来ると思うし、本人が気付かないとしても、自分の歩んできた人生によって死に方もだいたい決めてしまっているのだと思う。良くも悪くも。

人生の最後の場面にどのような生き方をしてきたのかが現れるのであれば、逆に考えるとどのような生き方をするかによってどのような最後を迎える事が出来るかも決まってくると思うのだ。このように人生の最後もある程度は自分で決める事が出来ると考えれば、人生の尊厳がを無視した無意味な延命などしなくても良い人生を送りたい。どうせ、延命できたとしても数週間だろうし、意識が回復する可能性は薄いのだから。

「生命」は地球の重さよりも重いというが、俺は「生命」よりも「人生」の方が重みがあると思う。ただ、人生に絶望していたり精神疾患で自殺願望の強い人の死にたいという願望は、また別の話になるのだけれども。

2008年11月1日 記入

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